手を取り合うことで、生まれる世界を ─ 社会との架け橋を目指すオペラ歌手・成田伊美さん


 ヒューマンインタビュー第7回は、オペラ歌手の成田伊美さん。





成田伊美(なりたよしみ)メゾ・ソプラノ



東京音楽大学卒業。同大学院、二期会オペラ研修所修了。モーツァルテウム国際サマーアカデミーに東京音楽大学の奨学生として参加し、アンナ・トモワ=シントウに師事。


第28回宝塚ベガ音楽コンクール声楽部門第1位、兵庫県知事賞受賞など受賞多数。2015年2月、二期会「リゴレット」チェプラーノ伯爵夫人役で二期会デビュー。二期会ニューウェーブオペラ「ジューリオ・チェーザレ」ではタイトルロールに抜擢され各方面から注目を集めたのは記憶に新しい。その後は二期会、宮本亞門演出《蝶々夫人》にケート役、二期会《サロメ》小姓役にて出演。その他にも《カルメン》カルメン役、《ホフマン物語》ニクラウス・ミューズ役、《ナクソス島のアリアドネ》作曲家役、《ティートの慈悲》ヴィッテリア役、《アンナ・ボレーナ》ジョバンナ役、《ウェルテル》シャルロッテ役などを演じる。またベートーヴェンの「第九」やモーツァルト「レクイエム」、ロッシーニ「スターバト・マーテル」のソリストを務める。「東京・春・音楽祭」や「大野和士こころふれあいコンサート2016」などソリストとしても出演している。二期会会員。桐朋学園大学大学院博士後期課程在学中。




2019年二期会《サロメ》、演出家のヴィリー・デッカーと共に




 東京二期会の《ジューリオ・チェーザレ》で鮮烈なデビューを飾り、その存在感を示した成田さん。その後も《蝶々夫人》、《サロメ》など、話題の舞台に数多くご出演を続けておいでです。筆者も、ご縁があって舞台をご一緒する機会に何度か恵まれましたが、その真摯な姿勢と音楽への情熱に、いつも尊敬の念を抱いておりました。


 成田さんはオペラの舞台に、どのように導かれていったのでしょうか。




二期会オペラ研修所マスタークラス修了試演会にて




「実は、高校生の時までは、フルートで音大に行こうと思っていたんです。吹奏楽もずっと続けていました。けれど、最初の音大受験ではいい結果に恵まれませんでした。なんとしても浪人だけはしたくない…!と思って、3月の二次募集の受験に間に合わせようと、声楽への進路変更をそこで決めました。楽典などの音楽の基本的な勉強は身につけていたので、問題は実技。同じく声楽家でもある両親から、生まれて初めて声楽のレッスンを受けました。1日8時間、かわりばんこに特訓を受けて、泣きたい思いを抱えてヘロヘロになりながらも、1ヶ月歯を食いしばって頑張りました。後にも先にも、両親がレッスンをしてくれたのは、その時だけです。


 その甲斐あって、無事に大学に合格することができましたが、最初の2年間は声が思うように出なくて苦しみました。3年生になった頃からようやく、声が出るようになってきました。その頃までは、あまり歌のお友達はいませんでしたね……。学部時代は、人前で歌うのがあまり得意ではなかったのです。芸祭委員として、コンサート部門の管理・企画・運営に携わる経験もしたのですが、そこでは打楽器やトロンボーンの子達と仲良くなりました。今も変わらずに仲良しです。コンサートの運営だけでなく、裏方の仕事も勉強したくて、ステージマネージャーのアルバイトをした時期もあります。将来を色々と模索していました。


 歌手としての自分を考えたり、客観的な立ち位置を考えるようになり始めたのは、修士に進んでからのことでした。それまでは、懐の深い先生の許でのんびりと育ってきましたが、修士になってからは意識が変わりました。修士を修了してから通い始めた二期会の研修所でも、大きな刺激を受けました。二期会の研修所は、予科・本科・マスタークラスと3年間あるのですが、この中でも牧川修一先生が主任をつとめられていた予科とマスタークラスで、厳しく鍛えられました。たくさんの先生方からの愛のこもった指導と、同世代の歌手たちとの切磋琢磨を重ねていくという経験を通じて、ようやく〈歌うこと〉に対して、本気になれたのだと思います」





 悩みながらも、十代後半から二十代前半の時期を歌うことと共に過ごすうちに、成田さんは歌手としての資質と心構えをゆっくりと育てていきました。そして、成田さんは着実に一段ずつ、歌手としての階段を登り始めます。



「初めて二期会のプロダクションに関わったのは、2014年の《ドン・カルロ》の時。エボリ公女のアンダースタディとして、勉強させていただきました。この時は合唱としても参加していて、プロダクションのTシャツを作るお手伝いをしたりもしました。顔は舞台化粧、顔から下は楽屋着のままで、そのTシャツを皆様に配っていたら、先輩方からねぎらいの言葉をかけていただいたことが忘れられません。


 稽古場での最初の印象も、忘れられません。第一線に立ち続ける先輩歌手の方々が、プライドと意地、全てをこめて、同じ板の上で、100%をさらけ出している。これこそが、本当の舞台なんだ……と震えるような思いを持ちました。《蝶々夫人》で、栗山先生のご指導を受ける機会に恵まれたのも、とても幸運なことでした。


 最初は、大きな役を担えないことに焦りを感じる時期もありました。けれど、尊敬する歌手であるフィオレンツァ・コッソットが、ある記事の中で『ヨーロッパでは8年ぐらい小さな役をやっていた』と語っていたのを読んで、気持ちがふっと楽になりました。人は人、自分は自分。それでいい。今出来る、精一杯のことを積み重ねていこう。その積み重ねを、出していけたらいいな、と願うようになりました」



2015年二期会ニューウェーブ・オペラ劇場《ジューリオ・チェーザレ》稽古風景より




 そして成田さんにとって、ひとつの転機となった《ジューリオ・チェーザレ》。センセーショナルなデビューは、各所から注目を集めました。その舞台を、成田さんは深い眼差しで振り返ります。



「《ジューリオ・チェーザレ》の時は、まだ頭でっかちな状態だったな…と思います。二期会《リゴレット》でチェブラーノ侯爵夫人をやって、そのすぐ後が《ジューリオ・チェーザレ》だったんです。20代ではほぼオペラの経験がなく、全幕通してひとつの役を演じるのは、ほぼ初めての経験。しかも、バロックオペラということで、緊張も多くありました。


 現場では最初、自分の作ったイメージを崩していくことが出来ずに苦しみました。5年経った今、振り返ってみると、今ならもっと違うアプローチが出来ただろうな、って冷静に思うことが出来ます。昔、『どんなことがあっても対応出来るように、自分の中の選択肢は多ければ多いほどいい。最低でも、3つ。7つ以上あってもいい』というアドバイスを受けたことがありますが、それも今なら分かります。現場では、ひとつの舞台の完成に向けて、多種多様な価値観を持つ、たくさんの方々と歩み寄り、柔軟に対処していくことが大事なんだと学びました。5年かけてようやく、この舞台の思い出を昇華させていくことが出来ました。いい思い出です」



 苦しみながらも、たどり着いたひとつの答え。5年の歳月をかけて、その揺るぎない答えにたどり着いた成田さんの声は、とても落ち着いていました。






 成田さんにとって、転機となった作品がもうひとつあります。それが、2019年に宮本亞門氏が演出された《蝶々夫人》。成田さんはこの舞台で、蝶々夫人と、自分の夫・ピンカートンの間に出来た子供を引き取り、育て上げることになるアメリカ人女性・ケートを演じました。



「亞門さんの演出では、蝶々夫人とピンカートンの子供であり、みずからの出自を30年間知らずに生きてきた息子・ドローレが、実の母親である蝶々さんの生涯に向き合う過程が丁寧に描かれていきました。亞門さんが稽古の中で話してらした印象的な設定で、育ての母親であるケートと教会に行ったドローレが、周りの心ない視線に『僕は、本当にママの子なの?』と不安になるというひとコマがありました。それに対して、ケートは『そうよ、あなたはママの子よ』と応える……。そう、亞門さんはおっしゃっておいででした。


 ケートのこの答えが導かれるまでの心の背景を埋めていこうと、自分自身で思いめぐらせて、ノートにたくさんの言葉を書いていきました。彼女はドローレを愛せるようになるまで、たくさんのことを悩んで、決断してきたと思うんです。そういうことを丁寧に考えられた時間というのは、かけがえのない経験でした。そしてこの経験は、これからの大きな糧になっていくと感じています。


 これから取り組んでいきたい役は……そうですね、ウィーンの先生にはケルビーノ(《フィガロの結婚》)、オクタヴィアン(《薔薇の騎士》)、コンポニスト(《ナクソス島のアリアドネ》)などがとても合っていると仰っていただけたので、そうした役に取り組んでいける機会をいただけたら、とても嬉しいです。また、昨年《皇帝ティートの慈悲》で、本来ソプラノの役であるヴィテッリアを演じる機会もありましたが、これもとても楽しかったです。パートはメゾソプラノですが、高い音域も得意なので、自分に合う役でご縁に恵まれたら、どんな役でも積極的に挑戦していきたいです」



 成田さんは、しっかりと前を見据えて語りました。



桐朋音楽大学大学院博士後期課程の入学式にて




 現在、成田さんは桐朋音楽大学大学院博士後期課程で、日本のオペラの上演史についての研究を重ねておいでです。また、コロナウイルスの影響を受けて「sqUare(スクエア)」という団体を立ち上げて、社会と声楽家を繋げていく活動にも取り組み始めておられます。




「コロナウイルスの影響は2月末から現れました。豊島区の第九に参加予定だったのですが、最後の練習ですごく手応えを感じられて、ホールでの本番を迎えられることを楽しみにしていたところでした。公演延期の報せを知った時には茫然としてしまいましたね……。ここまでのことになるとは、思っていなかったです。


 そのうちに、段々と考えが変わってきました。声楽家を助けるために署名活動を出来ないかしらとか、なにか基金を設立できないかしらとか…みんなの役に立つためには、どうすればいいのだろうということを考えるようになり始めました。そうした中で、やはりひとりで出来ることには限りがあるということも理解しました。私達声楽家は、どうしても横の繋がりが弱いままでしたが、手を取り合い、助け合っていくことで、生まれるなにかがあるのではないか……と信じて、『sqUare』という団体を立ち上げました。音楽を通じて、社会との交流を結んでいきたいと願っています。保育の専門家である中学時代の友人の手助けを借りたり、ソプラノの土屋優子さんとのインスタライブを定期的に開催して、声楽家としての声を発信し続けたり……まずは、少しずつでも、自分の出来ることを手探りで模索しています。そして、困っている人を、みんなで助け合えるような仕組みづくりをしていけるようになれたらいいな、と願っています。


 大学院での研究も、自分自身のスタンスを見つめ直すきっかけになっています。将来はもっと、パフォーマンスと、音楽学の研究の両立を出来るようになりたいと願っていますが、奨学金に応募をする時に、『音楽学』の項目がないことに衝撃を受けました。アカデミックな分野でも、もっと芸術が認められるようになってほしい。そう願っています。自分が出来ることが、社会に貢献できる一助になればいい。そうした考えを持つようになったことが、変化なのかもしれません。また、いずれは後進の方々のサポートを出来るような力を身に付けたいとも願っています」





「私が所属する二期会は、設立されて70年近くの歳月が過ぎようとしています。取り組む研究の一環で、二期会の資料を読み込む機会があったのですが、その中で『社会的なオペラ歌手の地位を高める』という先輩方の願いに触れ、胸が熱くなりました。多くの先輩方は、私達声楽家の社会的な立場や地位を向上させようとして、努力しておいででした。その甲斐あって、社会的な認知は上がりましたが、今回のコロナの一件では、非常に弱い立場であることが明らかになりました。これが、とても歯痒くもあります。


 私自身は、歌手として二期会の研修所に長い時間をかけて育ててもらえたことに感謝しています。私は成長するまでに時間がかかるタイプだったけれど、二期会の研修所はそういうタイプの人たちの伸びしろを応援してくれる場だと感じています。そして、そこで大事な仲間たちと出会うことも出来ました。そうした仲間たちが、安心して働いていける環境、音楽を続けていける環境を、これまでのように頑張りすぎることなく、みんなで助け合いながら作っていけたらいいな、って願います」



 そして、成田さんは明るい笑顔になりました。悩み苦しんだ少女時代を経て、ひとりの歌手として経験を重ね、そして深い心を持つ音楽家への道を歩み続ける成田さんは、これからも音楽を通じて多くの人々の心を照らす勇気と希望の松明を掲げ、社会との架け橋となっていくことでしょう。

 





 成田さんの、今後のますますのご活躍を心よりお祈りしております!






(文:藤野沙優)




0コメント

  • 1000 / 1000