さまざまなご縁に導かれて ── バリトン歌手・原田 圭さん


ヒューマンインタビュー第15回は、バリトン歌手・原田 圭さん。


Ⓒ井村重人



原田 圭(はらだ けい) バリトン


東京藝術大学卒業。同大学院修士課程、及び博士後期課程修了。博士号(音楽)取得。

在学中に安宅賞受賞。「藝大メサイア」公演のソリストとしてデビュー。

東京文化会館新進音楽家オーディション合格。デビューコンサートに出演。

第16回奏楽堂日本歌曲コンクール第1位、中田喜直賞受賞。

第77回日本音楽コンクール入選。


新国立劇場「黒船」、二期会「魔笛」、「フィガロの結婚」、「ナクソス島のアリアドネ」、「三部作」、日生劇場「夕鶴」、「ヘンゼルとグレーテル」等のオペラ、バッハ「マタイ受難曲」、「ヨハネ受難曲」、「ミサ曲ロ短調」、「クリスマス・オラトリオ」、ヘンデル「メサイア」、ハイドン「天地創造」、「ネルソン・ミサ」、ベートーヴェン「第九」、「ミサ・ソレムニス」、モーツァルト「レクイエム」、フォーレ「レクイエム」、プッチーニ「グローリア・ミサ」、デュリュフレ「レクイエム」、信時潔「海道東征」、黛敏郎「日蓮聖人」、石井眞木「Galgenlieder(絞首台の歌)」、千住明「万葉集」等のソリストとして多数出演。


ウィーンにてシューベルト歌曲集「冬の旅」のリサイタルを開催。


プラハ国立歌劇場特別演奏会モーツァルト「レクイエム」公演にソリストとして抜擢され、プラハ国立歌劇場管弦楽団と共演。


ヘンデル没後250年を記念して韓国で開催された第1回ヘンデル・フェスティヴァルに「メサイア」公演のソリストとして出演。


2014年ジャパン・アーツ主催、歌劇「夕鶴」(故・佐藤しのぶ主演)公演に運ず役で全国ツアーに参加。2016年の再演・全国ツアーにも同役で出演し、好評を博した。


NHK「名曲アルバム」に出演。


CDでは間宮芳生オペラ「ニホンザル・スキトオリメ」(第17回佐川吉男音楽賞受賞)、モーツァルト・シンガーズ・ジャパン「ドン・ジョヴァンニ」、信時潔「海道東征」(キングレコード・北原幸男指揮・東京交響楽団・東京混声合唱団と、オクタヴィア・レコード・福島章恭指揮・大阪フィルハーモニー交響楽団・大阪フィルハーモニー合唱団)がある。


千葉大学教育学部音楽科、日本大学藝術学部講師。


二期会会員


公式ウェブサイト~Kei Harada Official Website~ https://haradakei.com/

Twitter https://twitter.com/harakei711


東京藝術大学創立130周年記念・藝大オペラ定期 モーツァルト作曲≪フィガロの結婚≫フィガロ役。




いつも優しく朗らかで、どんな方からも愛される原田さん。第16回奏楽堂日本歌曲コンクールでの第1位ならびに中田喜直賞受賞という輝かしい経歴からは、原田さんの日本歌曲への造詣の深さが窺えます。


オペラでは特に、軽妙洒脱なキャラクターが求められるモーツァルトを中心にレパートリーを広げられてきた原田さん。現在は深められたその経験を活かし、数々の教育機関で後進の方々のご指導に携わっておいでです。そんな原田さんのインタビューは、様々な方とのご縁への感謝の思いにあふれる時間となりました。





「音楽の先生になりたい」

東京二期会オペラ劇場 モーツァルト作曲≪魔笛≫弁者役で二期会本公演デビュー。




「音楽にはじめて触れたきっかけは何だろうって、このインタビューの前に思い返していたんです。ふと思い出したのは、まだ幼い時の母親との会話を録音したカセットテープ。再生してみると、僕、ずっと童謡を歌っているんです。両親ともに音楽好きで、僕も小さな頃から音楽が好きでした。幼稚園の頃には地元の音楽教室に通っていて、グループに別れて楽器のアンサンブルをするのが、とても楽しかった思い出があります」



よく響く明朗な声で語る原田さん。以前にヒューマンインタビューにご登場くださった、バリトン歌手・小林由樹さんとの意外な共通点も打ち明けてくださいました。



「小学5年生の時、音楽の先生の薦めもあってトランペットを始めたんです。僕が音楽を志したきっかけは、実はトランペットなんですよ。だから小林さんもトランペットが出発点と知って、とても驚きました。


トランペットは、中学に入ってからも続けました。当時僕が住んでいた千葉県の船橋市では管弦楽部、つまりオーケストラ部のある中学校が多かったんです。僕が入った中学校にも管弦楽部があって、迷わず入部しました。管弦楽部の顧問の先生が、音大声楽科のご出身でいらっしゃったので、ヨハン・シュトラウスⅡ世作曲の《こうもり》序曲や、ビゼー作曲の《カルメン》組曲などのオペラやオペレッタの音楽にも、部活を通じて触れることが出来ました。


こうした環境もあって、いつしか『音楽の先生になりたい』と思うようになっていました。今に続くこの道の礎は、少年時代につくられたものなんです」




恩師の先生方に導かれて

初めて声楽を教えて下さったテノールの井上善策先生と。




「中学を卒業してから、管弦楽部の顧問の先生のもとに『音楽の先生になりたい』と相談に行きました。そうすると『トランペットもいいけれど、授業の時にはピアノも歌も必要になる。どちらか一つ、専門的にきちんと勉強した方がいい』と助言をいただきました。『歌は好きかい?』と尋ねられ『はい』と答えると、『僕が習っていた先生を紹介しよう』とおっしゃってくださって……それが、後の恩師となる井上善策先生との出会いでした。


井上先生の最初のレッスンで、先生の言われるままにわけもわからず発声をしました。そうすると『いい声だね、藝大を受けてみたら?』とおっしゃっていただきました。それが初めて〈藝大〉という場所を意識するきっかけとなりました。


『音楽教師』ではなく『声楽家』という選択肢を、初めて示してくださったのも井上先生。でも当時の僕には、自分が声楽家になるというイメージがつかなくて、鵜呑みにはできなかったんです。


考えが変わったのが、高校3年生のとき。高校では吹奏楽部に所属して、引き続きトランペットを吹いていましたが、文化祭でオペラを上演するという合唱部のヘルパーで、《カルメン》のエスカミーリョ役として舞台に出たんです。その時に初めて『オペラっていいな』って思いました。それが高3の秋。すこし遅いけれど、そこからが僕の本当のスタートでした。


現役での受験は藝大不合格。『もうちょっと、きちんと勉強していれば……』と悔やむ結果になりました。浪人して来年もう一度挑戦しようと思いましたが、日本大学藝術学部音楽学科に合格したので、そちらに進学することにしました。


日藝での恩師は、丹羽勝海先生。丹羽先生は超熱演型のオペラ歌手で、歌や舞台での表現が日本人離れしていて、カルチャーショックを受けました。門下の発表会でオペラの重唱に初めてチャレンジしたのもこの時で、モーツァルト作曲の《魔笛》からパパパの二重唱と、プッチーニ作曲の《ラ・ボエーム》から第3幕の重唱を経験させていただきました。いま思うと、経験の浅い僕によくやらせてくださったなって思います。舞台で表現することの楽しさ、素晴らしさを丹羽先生から教えていただきました。同世代の日藝の仲間たちにも、多くのことを学びましたね。今でもその絆は健在です」



藤沢市民会館でのシューマン作曲、歌曲集≪詩人の恋≫終演後。

左から藝大での恩師・平野忠彦先生、ピアニストの小松紀子さん、原田さん。




井上先生のレッスンも引き続き通い続け、その導きのおかげで一年後、原田さんは念願の東京藝術大学に合格を果たします。



「藝大では、平野忠彦先生と出会いました。平野先生はオペラ歌手としてだけでなく、俳優としての顔もお持ちでした。僕も一度、先生がご出演されるドラマの中で、とある俳優さんが劇中で歌われる歌の録音を頼まれ、NHKでその録音をしたこともあります。


平野先生のクラスでは、幅広く様々なことを学ばせていただきました。中でも印象に残っているのは、レッスンの前におこなう詩の朗読。朗読する詩の内容や詩人は自由ですが、毎回すべて詩を暗誦して、先生の前で朗読するんです。例えば「雨ニモマケズ」とか「小諸なる古城のほとり」とか。これが、毎週とても大変でした。けれど、言葉を扱うことの重要性を、身をもって学ぶことが出来たと感謝しています。オペラはもちろん、宗教曲のソロ、ドイツ歌曲、日本歌曲等々、自分の声楽家としての基本的なバックボーンとなるところを沢山、先生から教えていただきました。


学部卒業後は大学院に進学。大学院ではオペラ科に進もうとも考えましたが、平野先生から提示されたのは独唱科。歌曲や宗教曲を、腰を据えて勉強した方がいいとの助言をいただき、その道を選びました。


大学院2年の時、独唱科からオーディションで選ばれて、オペラ科主催の定期オペラ公演に出演する機会を得ました。演目は、モーツァルト作曲の《ドン・ジョヴァンニ》。僕はドン・ジョヴァンニの従者レポレッロを演じることになりました」



原田さんは2019年に、モーツァルト・シンガーズ・ジャパンのCD録音にもレポレッロ役として参加されています。



「当時初役だったレポレッロ役は、いろいろ大変でした。特にレチタティーヴォ・セッコは苦労しましたが、イタリア人講師のジャンニコラ・ピリウッチ先生やウバルド・ガルディーニ先生に叩き込んでいただきました。苦労した分、お褒めの言葉をいただいたときは、本当に嬉しかったです。


その後、博士課程に進学し、平野先生が退任された後は永井和子先生にお世話になりました。博士課程在籍中は個人的に非常に苦しい時間が多かったのですが、永井先生の親身なご指導と温かい励ましがあったからこそ、博士号を取得することができました。こうして振り返ってみると、僕は本当に先生方に恵まれています。お一人お一人に、心から感謝しています」





開かれる道、そして日本歌曲への思い

小金井・宮地楽器ホールでのモーツァルト・シンガーズ・ジャパン≪ドン・ジョヴァンニ≫公演。

左はレポレッロ役の原田さん。右はドン・ジョヴァンニ役の宮本益光さん。




大学院時代の《ドン・ジョヴァンニ》公演の出演は、原田さんのその後のオペラ歌手としての人生の礎をつくるものとなりました。



「指揮の若杉弘先生と出会ったのもこの公演でした。この公演がきっかけとなり、若杉先生から東京室内歌劇場に誘っていただき、様々な演目に参加させていただく機会を得ました。若杉先生には、オペラ歌手としての自分を育てていただいたと感謝しています」



東京室内歌劇場公演では、サリエリ作曲《ファルスタッフ》、吉川和夫作曲《金壺親父恋達引(かなつぼおやじこいのたてひき)》、石桁眞禮生作曲《卒塔婆小町》、パイジェッロ作曲《美しい水車小屋の娘》、そして新国立劇場公演の山田耕筰作曲《黒船》……なかなか上演されない作品の数々に、原田さんは携わりました。



「こうしたオペラへの出演と並行して、ドイツリートや日本歌曲の勉強も続けていました。2003年にはご縁をいただき、ウィーンでシューベルト作曲《冬の旅》全曲演奏をおこないました。ドイツ語圏に実際に身を置いて、音楽を深められたことはかけがえのない経験となりましたね。


ウィーンで《冬の旅》に取り組んだことによって、母国語である日本語の歌曲をもっと勉強して極めたいと、日本歌曲へ向ける眼差しも深まったように感じます。2005年には、奏楽堂日本歌曲コンクールで優勝することができました。


コンクール本選でのプログラムは、服部正作曲〈野の羊〉と、演奏時間が約12分にも及ぶ石桁眞禮生作曲〈鴉〉というもの。ユーモラスでとぼけたところもありながら、どこか哀愁も漂う〈野の羊〉と、詩人・三好達治の心の葛藤・苦しみを描いた〈鴉〉という両極端な組み合わせは、意識して選びました。色んな要素を僕という人間の中に見つけてほしかったんです。それに、こういう両極端な組み合わせって、昔から好きなんですよね」



原田さんは茶目っ気たっぷりに笑いました。



「歌曲というジャンルは、自分のすべてが問われるものだと考えています。ピアニストとの合わせやディスカッションを重ねて、宇宙にも似た深い世界を無限に表現していくことができます。そうした経験があるからこそ、オペラでもまた豊かな世界を構築していけるのではないかと考えています。


また、歌曲では特に、自分の年代に応じた受け取り方の違いを感じられるのも、非常に魅力を感じます。20代で触れた作品に、30代、40代で触れ直してみると、まったく異なった味わいを感じることができます。もちろんオペラでもそうした味わいは感じられますが、歌曲はより個人的な側面を表現できるように思います」



ウィーン芸術週間でのシューベルト作曲、歌曲集≪冬の旅≫演奏会のプログラム。




「こうした取組みを評価していただいたのか、北原白秋作詩、信時潔作曲の《海道東征(かいどうとうせい)》という作品の演奏機会もいただきました。


日本で初めてのカンタータである《海道東征》は、1940年に皇紀2600年奉祝曲として作られた作品。大和言葉で書かれていて、音楽面ではところどころワーグナーの要素も感じられます。戦前の文化を封印する時代が長く続きましたが、2015年に信時潔の没後50年を記念して、藝大で演奏される機会があったんです。そこから再演の気運が高まり、僕にもお話をいただくようになりました。


こうした日本の作曲家が遺した名作の復活演奏に携わるのもご縁だし、自分の果たすべき役割のひとつなのかなと考えますね」





《ヘンゼルとグレーテル》、そして《夕鶴》

日生劇場≪ヘンゼルとグレーテル≫鹿児島での学校公演終演後。

前列左からお父さん役の原田さん、グレーテル役の三宅理恵さん、指揮の時任康文さん、ヘンゼル役の守谷由香さん、暁の精&露の精役の照屋篤紀さん、後列左から魔女役の眞弓創一さん、演出の広崎うらんさん、お母さん役の押見朋子さん。





原田さんの音楽人生を語る上で、忘れることができない2つのオペラ作品があります。それは、フンパーディンク作曲《ヘンゼルとグレーテル》と、團伊玖磨作曲《夕鶴》です。



「実は日生劇場の《ヘンゼルとグレーテル》でお父さん役として携わっていた時に、娘が生まれたんです。日生劇場での公演を終えて、学校公演として地方を回っていた時のことでした。


忘れもしない福島県の會津風雅堂での昼公演の日が、妻の出産予定日だったんです。間に合うかな、どうかなと思っていましたが、会津に入った時に『陣痛が来た』と連絡を受けました。リハーサルや公演中、楽屋に戻るたびに携帯電話をチェックしていましたね。公演が終わったら、すぐにメイクを落として、頼み込んで、キャスト陣より一足早く出発するオーケストラの皆さんのバスに乗せていただきました。そして新幹線で郡山から横浜へ向かって……。そして病院に到着して、30分後に娘が生まれました。お父さんの役を演じた日に、本物のお父さんになったという、奇跡のような瞬間でした。


娘が生まれた一か月半後に鹿児島での公演があったのですが、共演者にも『舞台でもこれまでとは違う、本当にお父さんになったんだね』と言ってもらえました。たしかに、生まれてから一か月半の間、妻と一緒に娘を世話してきたので、その経験が演技ににじみ出たのかもしれませんね」


歌劇≪夕鶴≫全国ツアー、東京文化会館での公演終演後。

左から美術の千住博さん、運ず役の原田さん、演出補佐・振付の飛鳥左近さん、惣ど役の高橋啓三さん、つう役の佐藤しのぶさん、与ひょう役の倉石真さん、演出の市川右近(現・市川右團次)さん。




もうひとつの忘れられない作品《夕鶴》では、日本を代表するプリマドンナ・佐藤しのぶさんとの出会いがありました。



「やはり日生劇場での《夕鶴》がきっかけとなり、佐藤しのぶさん主演の《夕鶴》全国ツアーに、運ず役で出演しました。この全国ツアーは2014年と2016年の2回、計20公演以上全国各地で行われました。


普段のしのぶさんは朗らかで明るい方でしたが、作品と対峙している時のしのぶさんはいつも自分に厳しい方でした。楽譜の隣にはいつも書き込まれたノートがそばにありましたし、歌はもちろん演技のシーンひとつとっても、こうじゃない、こうじゃない、といつも考え続けておられました。ここまで自分に厳しく、そして努力を重ねなければならないんだと、深く感銘を受けたことを思い返します。


“つう”と”与ひょう”の別れの場面は、今でも目に浮かびます。しのぶさんの突然の訃報を受け取った時も、その場面が思い出されました。本当に”つう”のようにいなくなってしまったと、とても悲しかったです。しのぶさんの凛として、たおやかな舞台姿は、今も忘れることができません」





演奏家として、そして教育者として

門下生による発表会の集合写真(2019年)




演奏家として円熟期を迎えると共に、実直な教育者としても信頼を置かれるようになった原田さん。ご自身の原点でもある、教育への想いを最後に伺いました。



「最初に教育活動に携わるようになったのは、修士課程を修了してすぐの時でした。短大の保育士養成課程で非常勤講師をつとめたんです。この時には、音楽の専門ではない学生に、音楽の基礎知識を身につけさせ、最終的にピアノで弾き歌いが出来るように指導することが求められていました。最初は僕も手探りでしたが、学生が弾き歌いをできるようになった時の喜びといったら……。それはもう嬉しかったですね。


その後、母校である藝大、上野学園での職を経て、現在では千葉大学教育学部音楽科と、日本大学藝術学部音楽学科で教鞭をとっています。実は千葉大学は最初に志望していた大学。そして、藝大に入る前にお世話になったもう一つの母校である日藝と、ご縁深い2つの大学で教育に携われることを、大きな喜びと感じています。恩返しと思って、惜しみなく伝えていきたいです」


メノッティ作曲、歌劇「電話」公演。

左からベン役の原田、ルーシー役の針生美智子さん。




「演奏家として経験してきたことを、教育者として学生の皆さんに還元していきたい。常にそう思っています。だから演奏家としても、まだまだ自分自身の学びを止めず更にステップアップしていかなければならないと強く思います。


現在、8月の東京文化会館、11月の新国立劇場で上演予定のワーグナー作曲《ニュルンベルクのマイスタージンガー》でカヴァーキャストとして、初めてのワーグナー経験を積んでいますが、これも自分にとっては貴重な好機。これからは、ワーグナー作品も少しずつ勉強していきたいですね。


もちろん大好きなモーツァルトのオペラ作品は大切に、いつまでも歌っていきたいです。歌曲や宗教曲も好きなので、色々な作品に取り組んで、多くの皆さんに聴いていただきたいと思っています。


そんな具合で、僕もまだまだ自分を磨き続けている途上の段階。そして、学生さんと共に過ごすことで、多くの学びを得ています。そういう意味では学生さんにも感謝ですね。


学生さんにアドバイスをするとしたら? そうですね……『バカになれ』と伝えたいです。もちろん本当のおバカさんになるのではなく(笑)、勉強でも、他のことでもなんでもいいので、バカになるくらい、自分が心の底からやりたいことに打ち込んでほしいですね。先入観にとらわれず、自分がこれ!と決めたことに没頭することで、必ず自分にとっての糧が見つかり、心も身体も豊かになると思うのです。


そして『自分はこれだけやった!』『これだけは誰にも負けない!』って自信をつくってほしいです。礼儀と筋さえ通っていれば、どんなことをやってもいい。悔いのない学生生活を送ってほしいと切に願います」



そして、原田さんは穏やかに微笑みました。その微笑みはもしかすると、原田さんがこれまでお世話になった恩師の先生方への想いがにじんだものだったかもしれません。




原田さんの益々のご活躍を、心よりお祈り申し上げます!






Human Interview

「ヒューマンインタビュー」では、 いまを懸命に生きる方々の 〈声〉をお届けしていきます。

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