愛する気持ちをシンプルに ── バリトン歌手・平林 龍さん
ヒューマンインタビュー第13回は、バリトン歌手・平林 龍さん。
平林 龍(ひらばやし りゅう/バリトン)
東京藝術大学声楽科卒業。
パリ・エコールノルマル音楽院へ留学。
オペラレパートリーとして「道化師」シルヴィオ、「フィガロの結婚」アルマヴィーヴァ伯爵、「ペレアスとメリザンド」ペレアス、宗教曲ではフォーレ「レクイエム」、サンサーンス「クリスマスオラトリオ」、ヘンデル「メサイア」のバリトンソロなどがある。
フォーレ連作歌曲全曲演奏リサイタルを行いライブ収録CDをリリースするなど、
意欲的に演奏活動を行っており特にフランス音楽の理解と繁栄に力を入れている。
他にも第45回劇団四季オーディション合格。東宝ミュージカルアカデミーで研鑽するなど、
クラシカルクロスオーバー、映画音楽、ラテン音楽、シャンソン、
歌謡曲まで幅広いレパートリーを持つ。
テレビ東京「THEカラオケ☆バトル」出場や、
長年行っている独自の歌声喫茶活動の他、
合唱指揮、ピアノ、作編曲など活動は多岐に渡る。
2011年ポニーキャニオンより、2018年にキングレコードよりメジャーCDリリース。
フランス音楽に造詣が深く、パリのエコール・ノルマル音楽院で研鑽を積まれた平林 龍さん。ご自身の才能を活かし、オペラや歌曲の演奏にとどまらず、クラシカルクロスオーバー、映画音楽、シャンソンなど幅広い演奏活動をされる他、作曲活動やピアノ演奏、また合唱指揮でも活躍なさっておいでです。
平林さんは今年の7月に、ドイツ・リートに焦点を絞ったリサイタルを開催することとなりました。繊細な精神世界を描くシューマンと、スケールの大きな作品を創作することの多かったワーグナー──その二人の作曲家の作品に、どのように向き合っていくか、お話を伺いました。
藝大時代の思い出
2015年12月23日(水・祝) 平林 龍バリトンリサイタル
~フォーレとヴェルレーヌ~ より
白寿ホールにて
「今回のリサイタルでは、藝大時代に勉強していたドイツリートに改めて向き合います。僕はパリにも留学して、フランスの音楽を勉強してきた時期が長いのですが、ドイツリートは僕の原点。そういう意味でも僕自身、今回のリサイタルはとても楽しみなんです」
穏やかに語る平林さん。藝大時代は筆者の2学年上の先輩で、いつもスタイリッシュな佇まいが後輩からの憧れを集めていました。藝大時代は、どんな学生生活を送っていらしたのでしょうか。
「僕は受験の時から高橋大海先生にお世話になってきました。ご存知の方も多いと思いますが、大海先生は演奏家・指導者としての活動の他に、地域に根ざした僧侶としてのお顔もお持ちです。回り道をしても、戻ってこられる場所をいつも整えてくださっておいででしたね。『大海イズム』とでも呼ぶような、そんな先生の佇まいをいつも尊敬していました。
学生時代、マルチェッラ・レアーレ先生のもとに里子に出されたこともありました。その時に『テノールのアリアも歌ってみて。私はテノール以外は見ないんだもの』と先生がおっしゃられたことがあって。それでおふたりの先生の前で、モーツァルト作曲のオペラ《ドン・ジョヴァンニ》からテノールのドン・オッターヴィオが歌うアリアを聴いていただいたんです。そしたら大海先生は、” Quasi tenore(ほとんどテノールだね)”っておっしゃいました。『ほとんどテノールだね、でもテノールではない。違うんだよ、君はバリトンなんだよ』ってことを短い言葉で示してくださったのだと思います。このことは、今でも深く心に刻まれていますね」
「そういえば、今回歌うワーグナーの《ヴェーゼンドンク歌曲集》と最初のご縁を持ったのは、大学受験の前のことでした。受験の時には、大海先生からソルフェージュで青島広志先生をご紹介いただき、門下生として研鑽に励んでいたのですが、ある時、青島先生の門下で受験に向けての模擬試験をやろうということになったんです。その時に、講評をくださったのが毛利準先生でした。とても可愛がってくださって、藝大に入ってからもご挨拶にお伺いしたら大変喜んでくださったのを、今も思い出します。
実はこの毛利先生が、青島先生とご一緒に《ヴェーゼンドンク歌曲集》の録音を出しておいでなんです。今回のリサイタルにあたって、恩師おふたりがこの作品の録音を出しておいでだというこの事実に改めて向き合って、静かに感銘を受けています」
《ヴェーゼンドンク歌曲集》の愛
2017年7月15日(土) 平林 龍バリトンリサイタル
フォーレ、ドビュッシー歌曲、世俗カンタータ『仮面舞踏会』…プーランク 他
ヤマハホールにて
「ワーグナーの《ヴェーゼンドンク歌曲集》は、楽劇《トリスタンとイゾルデ》を制作中だった彼が、彼の支援者の妻であったマティルデ・ヴェーゼンドンク夫人と恋仲になり、その過程で生まれた作品。ワーグナーの作品としては珍しく、彼自身がテクストを書いたのではなく、ヴェーゼンドンク夫人が書いたテクストに作曲しているんですよね。
この作品に触れる度に、ワーグナーの深い愛情を感じるんです。たとえば、第1曲の〈天使〉では、『子供の頃、天使がやってくると聞いたことがある』と始まります。この前奏から既に、少女時代のヴェーゼンドンク夫人を優しく見つめるワーグナーの眼差しを感じてしまって。なんて愛らしい女性なんだろう、と愛情深く見つめていたんだろうな……というのが、この前奏からすでに伝わってくるようです」
「これまでは、《ヴェーゼンドンク歌曲集》は女性が歌うのが常でした。確かに、女性が書いたテクストなのですから、それが自然なアプローチなのかもしれません。けれど、『この歌曲集は女性のためのもの』『これは男性のための作品』というのは、もしかしたらこれからの時代は変わってくるんじゃないかと思うんです。いや……僕個人としては、むしろ積極的に変えていきたいと思っています。
確かにそこには、ジェンダーへの問題意識なども含まれるのかもしれません。けれど、単純に『いい作品を歌っていきたい』という芸術家としての希望が、僕にとって一番の原動力なのです。みずからの芸術的欲求に従っていきたいのです。
僕は、ワーグナーの芸術をとても愛しています。《トリスタンとイゾルデ》など、こんな美しい音楽があっていいのかと陶然としてしまいます。いつかパリのバスティーユ劇場で《トリスタンとイゾルデ》を聴いた夜のことは忘れられません。あの夜、劇場で体験した音楽の美しさは忘れられません。
けれど、僕はワーグナーのオペラや楽劇を歌えるタイプの歌い手ではない。そして、僕は連作歌曲集の演奏を自身のライフワークとしていきたいと願っている。だから、ワーグナーの作品で唯一の連作歌曲集である《ヴェーゼンドンク歌曲集》を取り上げるのは、僕にとっては当然の帰結でした。
《ヴェーゼンドンク歌曲集》で描かれているのは、愛する女性との精神の交流。その言葉と音楽の中に身を浸せることがとても幸せですね。人が、誰かを大切に思う気持ちや愛する気持ち。僕はそれらを、ただ語り部としてシンプルに歌っていきたいのです」
平林さんは強い意思のこもった眼差しで、そう語りました。
1840年の〈歌の年〉
2018年9月23日(日) 平林 龍バリトンリサイタル2018
~フォーレとプーランク~ より
白寿ホールにて
「今回取り上げる作曲家のうち、もう一方のシューマンはワーグナーとは非常に対比的な存在ですね。シューマンを語る上で特筆すべきは、音楽をお好きな方ならご存知であろう1840年の〈歌の年〉の存在。生涯の伴侶となるクララと結婚したこの年は、《ミルテの花》や《女の愛と生涯》、ハイネの詩による《リーダークライス》Op.24、そして彼の心のプライベートな部分を描いたとも言えるアイヒェンドルフの詩による《リーダークライス》Op.39など非常に多作な年となりました。
この中でも《リーダークライス》Op.24から、《リーダークライス》Op.39へ至る過程における、シューマンの芸術的な成長が自分の中では非常に興味深いですね。今回取り上げるにあたっても、楽譜に向き合う時間がとても楽しくて仕方がありません。
僕はずっと、フォーレやプーランクを始めとしたフランスの歌曲をレパートリーとし、長年に渡って勉強し続けてきました。それが僕にとっての芸術的な基盤であり、背骨になっていると感謝しています。そして、フランス歌曲によって自身の芸術性を育ててきたからこそ、いまこうして自信をもってドイツ歌曲に向き合うことが出来るようになったと感じています。
たとえば、フォーレの傑作《イヴの歌》は、シューマンの《女の愛と生涯》との精神的な類似性を指摘出来ます。アダムとイヴの〈イヴ〉の生涯を描いた《イヴの歌》は、《女の愛と生涯》同様に、ひとりの女性の生涯を描いた劇的な作品。いずれも女性歌手が歌うことが多い作品ですが、僕はいずれこの2つの作品も演奏したいという夢を抱いています。先ほども語りましたが、僕にとって一番大事なのは『いい作品を歌っていきたい』という自分の芸術的欲求です。だから、女性が《詩人の恋》や、シューベルトの《水車小屋の娘》を歌っていくという芸術的活動も、もっと広まるといいと願っています」
「今回共演するピアニストの尾島紫穂さんにも感謝しています。彼女はずっとウィーンで勉強されてきたから、ドイツ音楽圏の生きた空気を吹き込んでくれています。
彼女が演奏される《トリスタンとイゾルデ》の〈イゾルデの愛の死〉も、今回のプログラムに非常に寄り添ってくださった選曲です。ワーグナーが作曲した《トリスタンとイゾルデ》、その中の白眉ともいえる〈愛の死〉を取り上げて、リストが編曲した作品。19世紀は、こんな風に他の作曲家の作品へのオマージュが多く作られる時代でした。
そんな時代の芸術を演奏することを通じて、その時を生きた芸術家たちの精神性を伝えていきたい。これからはこうした演奏活動を通じて、やはり芸術家である自分自身を育てていきたいと願います」
苦難の「2020年」を経て
2019年9月21日(土)平林 龍バリトンリサイタル2019
フランスレパートリー・歌曲〜合唱〜アリア より
JTアートホール アフィニスにて
「コロナという厄災に見舞われた2020年。多くの芸術家が苦難の季節の中にあると思いますが、僕たちもまた苦しい時期を過ごしています。指導していた合唱団でも指導の形態を変えざるを得なくなったり、また音楽院を閉鎖するという選択に立ち会った場面もありました。コロナ前を思い返すと、何もかもが変わってしまいました。
でも、そんな中でも立ち止まっていてはいけないと思うんです。音楽は、芸術は、なにがあっても続けていかないとならない。ささやかでも僕にも出来ることをしていきたい。そういう思いもあって、今年のリサイタル開催に至りました」
「2020年」という誰にとっても厳しい年を、どこか晴れやかに振り返る平林さん。そう語る心の底には、世界を襲う大きな波のエネルギーを利用して、みずからの変化を続けていこうという強い決意がありました。
「2020年は、音楽活動を見つめ直すきっかけの一年にもなりました。これまでは、どこかクラシックの世界に対する諦観もあったのかもしれません。だから、自分の才覚を発揮できるアレンジや作曲の世界にも身を置いていました。もちろん、これまで高い評価をいただいてきたことへの感謝は、深く持っています。
けれど、昨年の大きな変化に直面したことで、もう一度クラシック音楽に───自分の原点に立ち返ろうと決めたんです。クラシックの芸術に、しっかりと向き合いたい、向き合い直したい。渇望するように、そう願いました。だから、芸術作品を歌うことで、評価をいただく歌手になっていこう。そうした自分を、自分自身で育てていこう。そうした決意を固めました」
「私生活でも大きな変化がありました。実は、あらたに結婚して父親になったんです。生命の誕生に立ち会い、これまでとは違った視線で世界を捉え直すようになりました。今日も車のトランクにベビーカーを積んでいるんですよ。まさか自分にこんな一面があるなんて、思いもよりませんでした。こうした経験もまた、自分の音楽に新たな側面から光を当てられるきっかけになるのではないかと思っています」
照れながら、そう話してくださった平林さん。お子様のお写真も、そっと見せてくださいました。
「家族との時間もこれまでよりも大事にできるようになりました。離れて暮らす両親も、音楽活動のことで親身になってくれています。心から感謝しています」
「7月のリサイタルは、僕にとっても新たな季節の始まりとなる節目の演奏会。ぜひ、多くの方にいらしていただき、その旅立ちを見守っていただけたら、とても嬉しいですね」
平林さんは少しはにかむように笑いながら、強い決意をもって語りました。
平林さんのますますのご活躍を、心からお祈りしております!
〈公演情報〉
平林 龍バリトンリサイタル2021
日時:
2021年7月27日(火)
開場13:00/開演13:30
場所:
古賀政男音楽博物館けやきホール
(東京・代々木上原)
出演:
平林 龍(バリトン)
尾島紫穂(ピアノ)
曲目:
R.シューマン
リーダークライス(全曲)Op.39
R.ワーグナー
ヴェーゼンドンク歌曲集
R.ワーグナー ─ F.リスト
「イゾルデの愛の死」(ピアノソロ)
チケット:
6,000円(全席指定)
お申込み・お問合せ:
03-3280-6269(平日13-18時)
event@arias.jp
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